ベルリンの街中には Westhafen という場所がある。Hafen (英: harbor) とは港の意味なのだが,街中でどうして港なのかと思っていたら,確かに港があった。私は乗り換えには時々使う駅だが降りて歩いたことがなかったので知らないだけであった。
Berlin Westhafen |
ここを知人と散歩した時に,最近読んだ共通の本の話をした。この本(*)が面白いので議論は多岐に渡ったが,特に 2 つの部分が心に残ったので記しておこう。
一つは表題にもある「きみたちには,起こってしまったことに責任はない。でもそれが,もう繰り返されないことには責任があるからね。」である。何か責任を考える時,その時生まれていなかった人には「個人的な」責任をとることはできないと思う。極論として先祖のしたことに責任をもてというものもあるが,それは無理と思う。逆に子孫に責任を転嫁することにもなりフェアとは思えない。これは戦争についての言葉であるが,戦争でも同じだと思う。(上記で私があえて「個人的な」というところにかっこをつけておいたのは,個人ではない場合にはこれにあてはまらない場合があるからである。)
もう一つの部分は,米国の日本への原爆投下は,米国民を救うためということでそれを良しとすることに対する議論である。ここで私は一歩ひいて考えてみたことを知人と議論した。一歩ひいたというのは,戦争,特定の国を外して考えたことである。その場合,ある組織が,誰かを助けるために誰かを殺す権利があるか,という議論になる。ここで気がつくのは,人が誰を殺すかを選択できるという前提が断りなくあることである。この部分を私は恐しいと思った。たとえば私に誰かを殺す権利があるかを考えると,それはないと思う。「戦争」という文脈になると,それが突如自然にあることとされる。たとえば,戦争だから敵を殺すのは当然となる。この傲慢さはいったいいつどこで私の頭に入ってきたのだろうか。
私が好きな哲学者は「Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten könne.」と言う。私がこの言葉を本当に理解することは多分無理のような気もするが,それでもこの言葉を聞いて私が思うのは「いつどんな時でも大丈夫な原理で行動をする」という意味である。すると,戦争だから何かの価値観が突然変わるというのはこの言葉によるとおかしい。駄目なことはいつだって駄目なのではないか。そう考えていると,たとえば愛する人を殺された場合や,多数を救う場合など,極端な状況での感情を持ち出されることがある。しかし,それでも人には人殺しの権利などはいつだってないと思う。もし私にそれがあると思うとすれば,自分が人の命を自由にできる神の一種だと錯覚するだけの傲慢さを持った時だろうと思う。
* きみたちには、起こってしまったことに責任はない でもそれが、もう繰り返されないことには責任があるからね 「小さな平和」を求めて ポツダム・トルーマンハウスとヒロシマ・ナガサキ広場の記録: ふくもとまさお
https://store.voyager.co.jp/publication/9784866890906
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